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読谷の飛行場に想う。

躊躇したら負けなので、とりあえずベンチプレス100㌕を目標にしています。

日本人としての欠如と、シリコンバレーの人々。

村上龍 ウェブ時代をゆく

村上龍があるエッセイで「沖縄と北海道の人間には、普通の日本人として何かが欠如している」と
表現していた。学生時代これを読み、沖縄出身である僕は大きな衝撃を受けたことを覚えている。
「同じ国で、同じ人種で何がどう違うのか」と。日本人としてアイデンティティを傷つけられた
ようにも思えた。


それから時は経ち、僕は就職し、その就職先にいた北海道の人と親しくなった。
そのとき僕らは研修で横浜にいた。沖縄・北海道と比較すれば、まさしく日本的な場所だし、
日本的な人々に溢れていた。その中で僕とその北海道の友人は、村上龍が定義する
「何かが欠如している人間」だった。


そういった話題をその友人とよく話した。いったい何が欠如しているのだろうと。
精神的なモノなのか、肉体的なモノなのか。考えうることを二人で話した。
そういった話を繰り返す内に、欠如というのは、決してネガティブな意味合いでなく
余分なものがないという意味合いではないかと、ある仮定が形成されていった。
遠く離れた土地で生まれ育った同士が、共に共感を得た答え(暫定的ではあるけれど)は
一つの仮定としては成立するかもしれない。



そして今、僕はシリコンバレーツアーの募集要項を作成しながら、その欠如について考えていた。


僕は今現在いる場所で、謂れのない閉塞感を抱えている。勘違いしないでほしいが
これは決して現状に対する不満ではない。今の職場には感謝している。それなりの給料をくれ、
それなりの休日をくれ、それなりに自分の時間を作ることができる。だから感謝している。


けれど、閉塞感は日に日に強くなる。「ウェブ時代をゆく」が刊行されてからそれはより一層強く。
ウェブから得るシリコンバレーの様々な人々、そして彼ら彼女らがよりよく生きる姿やその人間性。
その情報と、自分自身が今いる場所における「こうあるべき姿」が大きく乖離していることが
閉塞感の主要素ではないだろうかと思う。


「誉めることは間違いで批判することが正しい」
「笑顔ではなく、難しい顔をしているのが正しい」
「仕事なんて楽しくない」
「技術で何も世界は変わらない」


僕が知るシリコンバレーとは正反対の現実がそこにあって、同化への脅迫が見えない力として存在する。
その力に逆らおうとしても、今の僕とってはそれがリアルで、シリコンバレーはあくまで「情報」だ。
ウェブ上で表現されることは、辛辣な表現をすれば「他人の経験」であり、「他人の言葉」だ。
実際にはシリコンバレーは存在しないのでないかと思ってしまう。確かに存在はするだろう。
存在するという証拠をウェブ上から見つけることは非常に容易い。でも、それは情報にすぎない。



欠如の話に戻るけど、シリコンバレーの人々のメンタリティは何かが欠如しているんだろうと思う。
もちろん人種とか色々な違いはあるけれど、確かに何かが欠如(もちろんポジティブな意味で)してると思う。
それは周りに溢れる同化した人々と比較して思う。でも、それは僕にとって魅力的な欠如だ。

欠如を伴う(らしい)僕としては、誉めることが正しくて、笑顔で過ごし、失望と歓喜が共生する仕事をし、
技術が世界を変える、正しいことが正しいシリコンバレーで生きることは日本的な文脈から離れて、
より良く生きる術だと素直に、そして謙虚に思う。