読谷の飛行場に想う。

躊躇したら負けなので、とりあえずベンチプレス100㌕を目標にしています。

僕にとって「他者による自分の生活や時間の使い方の規定」は、「未知との遭遇」として心から楽しめない。


●大組織適応性を鑑みる。
今月末、僕の所属する課の部長が役職定年を迎える。そのため先日、その部長の役職定年式があった。式中、「部長の軌跡」と題したスライドがあった。生い立ちから今まで所属した課での軌跡だった。意識して観ていたつもりだけど、転籍した回数が何回なのか全く覚えていない。それほど、転籍の繰り返しだった。

「配属」「転勤」「配置転換」「別の組織への昇進」のような「他者による自分の生活や時間の使い方の規定」を、「未知との遭遇」として心から楽しめるかどうか。そこがかなり大切になる。
自らの傾向や「向き不向き」に向き合うこと - My Life Between Silicon Valley and Japan

自明にするまでもなく、彼(=部長)は「他者による自分の生活や時間の使い方の規定」を、「未知との遭遇」として心から楽しめていたんだろう。皮肉を込めてそう思う。そうでなきゃ、役職定年をしたあとに、単身赴任を引き受けることは出来ないはずだ。「仕事の内容も違えば、住む場所も違えば、上司も違えば、周囲の人々も違う」という世界へ行くことを容認しているんだから。


おそらく大企業にいる限り、僕はきっと彼、もしくは周りにいる大勢の人々と同様に「配置転換」をする事になる。「まだ新人だから」はどうやら通用しそうにない。新しい工場が出来れば、僕はそこにいくことになる。「仕事の内容も違えば、住む場所も違えば、上司も違えば、周囲の人々も違う」世界に。僕にとって「他者による自分の生活や時間の使い方の規定」は、「未知との遭遇」として心から楽しめない。スライドを観ながら、そして「配置転換」が当然の如く(もちろん会社としては当然だけれども)自分自身の業として存在するかのように話す彼を見て、僕は心から楽しめないと強く思った。絶対に嫌だと。

そう思うことは決して逸脱ではない。「配置転換」を業として受け入れるかわりに、僕らは保証をもらう。退職金、給与、その他諸々。「退職金を貰う前に会社を辞めれば路頭に迷う」と真顔で先輩は答える。期間を満了し、退職金をもらえれば幸せな老後があるだって?今までの老後と、これからの老後は決して同じじゃない。今までと同じ文脈では語れない。今から老後を暮らす彼と同じ道を歩み、その時を迎える僕の老後は暗澹としているとしか思えない。だから、僕は退職金をもらう権利を破棄してもいいとすら思う。権利を破棄してもいいと素直に感じているからこそ、僕の思考は決して逸脱ではない。

少しでもいい場所に、少しでも自己実現ができる場所を求めて、十年で三社ぐらいを移っていくことに、うしろめたい気持ちを持ったりためらったりする必要はまったくない。自分にぴったりあったきらりと光る「小さな組織」と出会うために、行動的な試行錯誤を繰り返せばいい。

ウェブ時代をゆく」p.188-189

僕は今はっきりと、梅田氏の言葉を噛み締めた。今までの古い文脈に過剰に適応しないで、「行動的な試行錯誤を繰り返」すと決めた。


●大組織のプロになる覚悟がない時にはどうすべきか。

そういう覚悟はない。勤めている会社の存続にも確信がない。周囲を見回しても自らの「大組織適応性」という資質に自信が持てない。「三十歳から四十五歳」の十五年と問われれば、漠然とだが「ここではないどこか」で仕事をしたいと思っている。大組織内のこういうタイプがじつはとても危ない。

ウェブ時代をゆく」p.191

上記で僕自身の心の有り様は述べた。けれど、市場から客観的に僕を判断すれば、僕は無に等しい。今会社を辞めれば、まさに路頭に迷ってしまう。理想と現実には深淵たる隔たりがあることもまた事実。大きな不安に押しつぶされそうになる。

『所詮それは限られた一握りの人間だけが実現できるのであって、凡人である「お前」には無理だよ。自分をわきまえろよ。お前はこれから平凡に時間を過ごして、なりたくないって思っているオッサンのように生きるんだよ。本当は薄々気付いているんだろ?』


毎日躁鬱状態を繰り返し、志向性を自問自答し、行動的な試行錯誤を繰り返している。けれど、暗澹とした気分は晴れない。果たして方向性は正しいのか。はたまた徒労に終わってしまうのか。そういった状態だからこそ、信頼する梅田氏と村上春樹氏の述べた言葉がリンクした時、救いと行動に強いモチベーションを与えてくれた。

そういうタイプの人は、「その会社から吸収できることをすべて吸収し、その十五年間の出来るだけ早い時期に辞める」というビジョンを持って生きるべきだと思う。

ウェブ時代をゆく」p.192

中学校の授業で教えられる知識や技術やらが、現実生活でなにかの役にたつとはあまり思えないよ、確かに。(中略)。なにを残してなにを捨てるかは、あとになってきめればいいんだからさ。

海辺のカフカ(上)」p19-20

どう足掻いたって、即座に今いる場所を変えることは出来ない。物理的に、そして今現在の僕の現状とを勘案してもそれは分かりきった答えになる。だったらどうするか?まず僕は「ただの吸い取り紙」になって、物事を吸収する必要性があることを理解する。そこで得られた物事は、理想とする自己実現の場所では特に価値のないことかもしれない。けれど、それは「あとになってきめればいい」。


古い文脈に過剰に適応せず、ビジョンを持ち続ける。ありきたりだけど、それは決して容易なことじゃない。だからこそ、僕はここにこの想いを書き記した。成長の標として、若き日の決意として。