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読谷の飛行場に想う。

躊躇したら負けなので、とりあえずベンチプレス100㌕を目標にしています。

僕は「趣味的に」生きてこなかった

村上龍 比嘉正也 村上春樹

僕はこの「無趣味のすすめ」を壁に張り付け、何かを決定する上で重要な指針としています。りもじろうさん]が紹介*1してくれたお陰で、多くの人の目に触れたことは非常に嬉しく思います。


●文脈の違い
「文脈の違い」というのは、いささか気付きにくいものです。

日本語はかなり多義的な側面があります。例えば、Twitterを英語版から使用しており、日本語訳に「しっくり」こなかった人は結構いると思います。僕はその内の一人です。勘違いしないで欲しいのが、日本語訳がダメというわけでなく、単に「しっくり」こなかっただけです。"What's are you doing"を「何してる?」よりは「何やってるばぁ〜?(沖縄方言)」の方が、僕にとっては「しっくり」きます。

個々人が持つ、それぞれの言葉にある背景や感覚。そういったもろもろを「文脈」として捉えれば、そこに違いがあるのは自明的なことです。だから、その違いを自覚し、再定義することは非常に重要なことでしょう。いちいち明文化する必要のないことだろうけれども、「全員が同じ認識を持っている」という文脈自体、「文脈の違い」が存在してしまう温床でしょう。

趣味という言葉を遊びと同義程度にしか理解していないんでしょう。
Kazu'Sの戯言Blog(新館) 損得でしか物事を計れない人は悲惨であると思う


「趣味」という言葉ひとつを取ったとしても、対象とする言葉がどういった「文脈」を捉えているか、充分に熟慮する必要性があると思います。村上龍氏は余暇の過ごし方の代表名詞として「趣味」を挙げたのであって、決して「趣味」それ自体を批判したかったのではないでしょう。つまり、「趣味」という言葉を徹底的に批判することで、「趣味」の背後にある厖大な概念の塊りのような「文脈」を示したかったのでしょう。


●「趣味」と「趣味的」の違い
村上龍氏の「すぐそこにある希望」の「現代を象徴するキーワードは『趣味』」に、以下のような記述があります。

たかをくくるというのは、ほとんどすべてのものは自分の想像の範囲内に収まっているはずだと無自覚に思い込むことだ。もう驚きはないのだと安定することだ。そういった態度は日本社会のあらゆる領域に蔓延している。

現代を象徴するキーワードは「趣味」だろう。ありとあらゆることが趣味的になった。考え方や生き方の変更を迫るような作品は好まれない。その作品を見たあとで何か新しいことを始めたくなるような小説や映画やテレビの番組はほとんど消滅した。

「趣味」と「趣味的」。村上龍氏は「無趣味のすすめ」と「すぐそこにある希望」で、この二つの表現を使用しています。「趣味」と「趣味的」は似て非なるものです。まるで「オレ」と「オレ的」(不思議な日本語表現ですが)の違いであるように、「対象」にフォーカスを当てたものか、「文脈」にフォーカスを当てたものか。「僕は『趣味に』生きてこなかった」「僕は『趣味的に』生きてこなかった」この二つの主張は、大きくニュアンスが異なります。村上龍氏が主張したかったのは、後者であり、世間一般的な「趣味」のニュアンスと「趣味的」のニュアンスは、とてつもなく遠い処に存在しています。


●僕の「趣味」とは?
僕には「趣味」と呼べるものはほとんどないです。候補と思われるものは「サッカー」「読書」「語学」「インターネット」。羅列するといかに少ないかが分かる。

僕はもう十年以上サッカーをしてきた。以前と比べ遥かに頻度は落ちたけれども、今もサッカーをやり続けている。自分の能力を本当に充分すぎるほど見てきた。贔屓目に表現して「凡庸」だと思う。それ以上でもそれ以下でもない。年代別の代表などとは程遠く、地元のクラブチームでレギュラーを競うのがやっとのレベルだった。

それでも僕はサッカーをし続けている。自分でも不思議なくらいに。その気持ちは「海辺のカフカ」の大島さんの言葉に近い感情かもしれない。

「この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。」

まさしく僕にとってサッカーは「退屈でないもの」だ。長い付き合いの中で「もう、いいや」と思える瞬間はままあったけれど、「自分の想像の範囲内にある」「全てを理解した」と、決して「たかをくくる」ことはない。まさに知れば知るほど、知らない自分と出会う。

たかがスポーツかもしれないが、僕は「趣味的に」サッカーとコミットしてこなった。実力云々より、それだけは自信がある。自分の存在や価値観を脅かす流れの中で、僕を揺るがすような出会いや発見があった。心を震わせ、涙を流し、自己嫌悪に陥りながらも失望や歓喜、興奮がサッカーとその周囲にはあった。その出会いや発見は、今も、そしてこれからも変わらないと思う。だから、これからも僕はサッカーをし続ける。僕はそう断言できる。Professionailとして活動するわけではないけれど、そこで得た経験は僕が何かしらのProfessionailと生きるために、僕の中で生き続ける。



僕は自らを脅かし、人生を揺るがすような出会いや発見、心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望や歓喜、興奮を意識的に求めてきたし、これかも求め続ける。だからこそ、恣意的にそれを避ける傾向にある「趣味」を僕は持っていない。僕にとってサッカーは決して「趣味」ではない。それ以外の「読書」「語学」「インターネット」も僕にとっては「趣味」ではない。誰かに強制されてするものでもないし、現状に満足することもない。そして、絶対に何があろうと「暇つぶし」なんて表現しない。

*1:http://remote.seesaa.net/article/94522722.html