読谷の飛行場に想う。

躊躇したら負けなので、とりあえずベンチプレス100㌕を目標にしています。

その残酷さが私を絶望させたのだった。

本日、ほぼ日手帳到着しました。ちまちまと手帳の引っ越しを実施・完了。

その引っ越しの合間に、二年前に切り抜きをした新聞記事を見つけた。タイトルは「成熟社会の実相」。以前、小野さん(id:sap0220)と話をした記事だ。

その記事に二年前の僕が赤線を引っ張った箇所がある。

世の中に答えが一つしかないことなどめったにない。

その当時、僕は多くの物事に「意味」を求めてきた。人と言葉を交わすこと、独りで思索に耽ること、タバコを吸うこと、誰かに罵声を投げかけること、投げかけられること、上を見ること、下を見ること。現在の僕がその当時の「僕」に言葉を掛けるなら、どんなに考えても、一人で考え生みだせる事柄は限られている。答えはそう簡単に見つからない。そういうものじゃないかな。だから、一人で悩み苦しまず、人と言葉を交わしなよ。そしてきっと言葉を交わした人々から感じ取れると思う。考え続けることが本質的な答えなんだよ、と*1

そういった姿勢で、記事を読むと以前より記事の言葉を感じ取ることが出来る。

哲学とは本来、こうした答えのない問いについて緻密に考える学問なんです。今の社会はすぐに正解を求める。そうでないと安心できない。でも分からないものには分からないままにきちんと向き合うことが大切なんです。

待つことが大切。でも本当に待つとは待つのを放棄すること

お袋から投げかけられた「お前は待つことを理解していない」を、いまもう一度鑑みた。どこかで答えを欲している自分自身が、確かにいる。答えを知りたい、教えて欲しい。しかし、それはきっと問いの前提が間違っているんじゃないか。答えが知りたければ、考え続けること。ある処に答えが確かにあって、それを得ることが出来れば自分自身が求める在り方になるなんて、きっと問いの前提が間違っている。

きみも[一人前]になり給え。そのためには、[人生]を信じ過ぎてはいけないよ。(p.116)
いいかね、私は美しい[人生]は美しい心からしたたり落ちる[結果]だと信じていた。だが、実際には、・・・汚れた手[に]も、感動的な[人生]は[分け与えら]れるのだ。その残酷さが私を絶望させたのだった。
どちらかが欠けてても、また、そのバランスが崩れてても

その当時、年を重ねれば、きっと僕が望み描くような生き方や在り方が「したたり落ちる」と信じていた。でも、それは決定的に違う。年を重ねるとは一つの結果でしかなく、そこに深い思考がなければいけない。無思索の果てにある答えは、きっと絶望しかない。「その残酷さが私を絶望させ」る。

しかし、その思索の終着点を「ひらすらに意識して待つと視野が狭くなる」。だから、バランスが大切。「人生を信じ過ぎ」ちゃいけない。得る事柄と訪れる事柄のバランスを、つぶさに観察すること。そういった姿勢は、きっと答えのない問いとの直面に繋がる。けれど、それは思いのほか、僕が望み描くような生き方や在り方に歩み寄るための通過儀礼ではないかと思う。

*1:ほら、三上さんも言ってるよ。「よく生きるとは - 三上のブログ」