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読谷の飛行場に想う。

躊躇したら負けなので、とりあえずベンチプレス100㌕を目標にしています。

それで本当にわかったのかい

読書 村上春樹

今日付けの日経新聞朝刊「半歩遅れの読書術」にて、上記の言葉があった。作家佐藤 亜紀さんの回想から言葉は紡ぎだされる。

大学生の頃、英文の先生と話をしていて、こう尋ねられたことがあるーそれで本当にわかったのかい。
(中略)そんなものは中学生の時に読んだ、と自慢顔で答えて返って来た問いがこれであった。(中略)教育的な問いというのは得難いものであり、この問いひとつでこの先生は私の「師匠の殿堂」入りをしている。


本の読み方について、色々と思索に耽る。読書自体の質は「量」に起因し、「数」をこなすことが大切なのではないかと漠然と考えていた。もちろん、職務的な文献や資料のインプットに対しては、前述の姿勢が必須であることは、疑念の余地がないほどに理解している。しかし、もっと基本的な部分で、村上春樹が「グレート・ギャツビー」や「ロング・グッドバイ」に対して抱く愛情は、はたしてそういった姿勢から生まれるものなのだろうか。

それではどうして僕はこの「ロング・グッドバイ」という小説を、それほど何度も何度も繰り返して読むことになったのだろう? それとも逆の言い方をした方が話はわかりやすいかもしれない。それだけくり返し読んでも、どうして読み飽きることがなかったのだろう?

村上春樹は「ロング・グッドバイ」の長いあとがきでこう記す。個々人がそのような強い想いを抱く本を持つ必要は、ない。しかし、僕はそういった強い想いを抱く本を持ちたいと無意識のうちに強く思っていた。


僕がある人から「ニーチェの以前と以後の世界」を知る必要がある、と言葉を交わしたとき、僕は「概念を理解するため、とにかく本を読みます」と答えた。そのとき、彼は表情を曇らせたのを記憶している。僕の言動の是非は問わないが、あとに続く言葉は「立ち戻って、しっかり考えることが非常に大切だ」だった。


自明的なことだが、皮相の見を積み重ねたとしても、それは皮相に過ぎない。概念を説明する僕の今の言葉は、きっと僕の言葉ではなく他人の言葉だ。