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読谷の飛行場に想う。

躊躇したら負けなので、とりあえずベンチプレス100㌕を目標にしています。

果たして、今の自分は「別の人生をイメージ」できているのだろうか

約2年ぶりのブログエントリーだと思う。
久々すぎて何を書いていいのか分からないけど、読書メモとして書いてみる。

星に願いを、いつでも夢を

星に願いを、いつでも夢を

20代のころ、なぜ酔いたいという欲求があったのだろうか。当然、酔って理性を薄め、女を口説きたい、というモチベーションは強かった。友人といっしょに酔っ払って、とことん話をしたいという気持ちもあった。だが、最大の理由は、「自分を失いたい」ということだった気がする。自分を失うというのは、前後不覚になるという意味ではない。(中略)。自分を失うというのは、単に、違う自分を見たいということだった。シラフのときとは違う、欲望とか、理性とか、通常の感情とか、常識とか、そんなものがごちゃごちゃになって、どろどろと溶け出しそうな精神状態の自分を確認したかった。なぜそんなことが必要だったのだろうか。20代のころ、自分とその環境に満足したり、自信に充ちていたり、矛盾や不安などどこにもないという人間がいたら、ただのバカだ。20代は、突発的な事故や、不意の病いがない限り、平均して残り40年、あるいは50年、ひょっとしたら60年も生きなくてはならない。そんなに長く残りの人生を生きなければならないというのは、不安で、憂鬱なことだ。作家としてデビューして、処女作がミリオンセラーになり、巨額の印税が入ってきたが、それは一時的な成功なのだと、わたしはよく分かっていた。だから酔ってごまかしたい、不安や憂鬱から逃れたいというわけではなく、違う自分と出会い、違う自分と会話したかった。違う自分というのは、言い方を変えれば、別の人生ということだ

「偏愛」とは、それに出会ってしまったら人生が変わるというくらいに強烈で、理性を吹き飛ばしてしまう危険な情動が継続されることをいう。偏愛は、決して得られないものを希求するので、必ず飢餓感を生む。偏愛が派生させる餓えを経て、人は、現状への、耐え難い不快感と不満と不安を抱くようになり、やがて「別の人生」をイメージするようになる。別の人生をイメージすることは、人生を、苛酷に、かつスリリングに、努力しだいでは充実したものに変化させる。

今、あらゆるところに「夢」という言葉が氾濫しているが、それは「夢」が消滅しつつある証しだと思う。実在しているものについては、あえて語る必要はない。子どもがカウンセリングで「愛情」という言葉を多用するときは、愛情に飢えているのだとある精神科医から聞いたことがある。「夢」が消えつつある時代、どういって生きればいいのだろうか。睡眠時の夢が非現実であるように、希望や目標を表す「夢」も、人に、別の現実、別の人生をイメージさせ、その実現を強く願い、実現に向けて具体的な努力をするように促す。だが、繰り返すが、今や「願い」や「夢」も消えつつある。